(2)自転車で自分で届ける「安田の靴」
「東京の安田」として
当時安田は、どこへでも自転車で移動した。夜道を20キロ以上かけて帰り、夜中の2時~3時まで仕事して翌朝は7時起きで納品という毎日。納品にも自らが必ず出向くことで、選手たちとの人間関係を築いて商売につなげたいと彼は考えていた。
予算がなかったこともあるが、新聞や雑誌などでの広告も一切しなかった。それでも、かつての顧客たちが地方の高校や大学に入学して、北は北海道、西は神戸、熊本からも注文が入るようになっていく。やがて地方の小売店とも取り引きが始まり、「安田」の名前も少しずつ全国に知られるようになる。当時サッカー靴メーカーと言えば、「神戸の佐藤」「長野の大松」「東京の安田」であったようだ。
その後、スポーツ問屋や小売店との取り引きが増えるに従って、安田はラグビー、ホッケー、スキー、スケート靴など、スポーツ全般に製品を広げていったが、生産の7割はサッカーシューズが占めていた。その頃のサッカーシューズは機能、構造も今とはまるで違っていて、シューズの先芯と月型に、人間が乗ってもつぶれないくらいの硬さが要求され、しかも履いた時に、まったく隙間ができないのが良い靴とされていた。選手達は時間をかけてシューズを自分の足になじませていたという。選手の個性もそれぞれに強烈で、靴の作り方に細かい注文を出してくる人もいた。安田の靴は、顧客と安田との合作だったともいえる。
丁寧な仕事を徹底
小売店との取り引きが始まると、注文量も職人の数も増えていった。計算上は、社員全員でフル生産すれば1日で40-50足だが、現実にはそんなに売れるものではなく、大半が修理の依頼であった。当時はシューズを1年は使うのが普通だったので、安田は東京中を走り回って、修理品をリヤカーに積んで持ち帰る日々だった。彼は自分に対しても、また店のスローガンとしても 「ごまかしのない正直な仕事をしろ」 と語っていた。靴屋は見えない部分の仕事が多い。ごまかそうと思えばいくらでもごまかせる。しかし、たとえ儲からなくても「安田」のイメージが高まるような、丁寧な仕事がしたい。結果的にはそれが利益につながると考えたのである。
独立して5年が経ち、「安田」のサッカーシューズとして名前も知れわたり、売れ行きも伸びてきた頃、日華事変が始まる。世の中はサッカーどころではなくなった。革の配給もままならない。太平洋戦争が始まってからは、大塚製靴の下請けで、海軍特攻隊の靴を作るようになっていた。
プロローグ一覧
(1)安田重春とサッカーシューズ・創始期から独立
(2)自転車で自分で届ける「安田の靴」
(3)サッカー用品の総合メーカーへと成長
(4)クリックスヤスダ誕生・そして自己破産へ
(5)クラウドファンディングを経て株式会社YASUDAが復活
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