(3)サッカー用品の総合メーカーへと成長
シューズだけでなくメーカーへ
戦後の復興期あたりから、商売の形は一変した。消費者に直接売る形態を改めて、すべての製品をスポーツ問屋やスポーツ店を通して販売していくことに方針を変更。戦後日本のサッカーの普及は戦前の比ではなく、それらの需要に対応していくためには、消費者に一足ずつ売るような商売では伸びていかない、と安田は考えたのである。すでに「安田」のブランド名は知られていたので、問屋との取り引きもスムーズに進んだ。
二代目一男氏が社長就任した昭和35年(1960)には、「日本サッカーの父・恩人」と言われるデットマール・クラマー氏が、日本代表チームの強化のためにドイツから招聘された。「安田」もサッカー用具について、さまざまなアドバイスを得たという。
この年、「安田」は日本初のゴム底のサッカーシューズを開発して大ヒット。ナイロン底の開発も日本初で、靴の市場はほとんど「安田」の独占だった。昭和39年(1964)の東京オリンピックの時には、靴ではサッカーの「安田」、陸上ではオニツカタイガーだけが、大会中にサービスステーションを出すことを許された。安田は日本の選手だけでなく、出場する全選手の対応も行った。
東京オリンピック後の爆発的ブームを境として、オニツカタイガー、モンブラン、タチカラ、ヤンガーといったメーカーが続々と登場したが、年々の需要増で「安田の靴」の生産量は減らなかった。むしろ、ブランド間の競争によって、品質が向上していくことになる。
日本サッカー協会の公認球を製造
「安田」は、三ノ輪にあったボール製造工場を買い取り、ボールの製造を開始する。当時、シューズ用の革で取り引きのあった企業の協力を得て、国内外のあらゆるボールと革について調べ、80通り以上の革加工の仕方を研究した。やがて「安田のボール」も認められるようになり、品質も向上して売れるようになっていった。昭和42年(1967)には、「イレブンスターズ」として日本サッカー協会の公認球の認定も受ける。昭和45年 (1970)からは自社ブランドのサッカーウェア、審判用品なども製造するようになり、名実ともにサッカー用品の総合メーカーとして出発することになった。
プロローグ一覧
(1)安田重春とサッカーシューズ・創始期から独立
(2)自転車で自分で届ける「安田の靴」
(3)サッカー用品の総合メーカーへと成長
(4)クリックスヤスダ誕生・そして自己破産へ
(5)クラウドファンディングを経て株式会社YASUDAが復活
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